環境デザイン・アトリエ

横浜の建築家からのメッセージ。
日々感じた事を綴ります。

2016年1月28日木曜日

3.11以後の建築 by 青木淳さん

3.11以後の建築、前回の続編。


丁度、水戸芸術館に見に行った日に、展示との関連企画で「水戸ブンシツ際」と青木さんの講演会をやっていた。

青木さんによると「ブンシツ」というのは、現在十日町で進めているプロジェクト[市民活動センター]の為に作った設計事務所の分室。
そこは青木さんの事務所の現場詰所としてはやや広めで、十日町の人たちが寄合って会議をしたり、講演会をやったり、お食事会でみんなが集まったりできる。
つまり、建設中の[市民活動センター]で行われるであろう企画を前もってやってみよう、やがて完成する[市民活動センター]を町民が使い果すための助走期間としよう、というわけだ。

従来、設計事務所は建物をデザインすることが仕事で、内容(企画)は別の人が作っていた。しかし青木さんは使われ方(プログラム)に関われない設計にフラストレーションを感じていたと言う。ハードとソフトが一体となって建物が活き活きとするわけだけど、「ブンシツ」は、小さいけれど(ある意味)大きな実験場であった。

追伸
ここでは紹介しきれないけれど他にも多くの試みがあって、ハードに特化した設計手法が江戸時代のデザインに見えてしまうのもそう遠くないだろう。

画:hiromichi yasuda







7 件のコメント:

  1. 先生、こんばんは。

    私はこの建築展を知っていましたから、水戸でなければ…
    行くことはやはり無理そうで、先生の記事で内容を窺えて、本当に良かったです。

    私は東日本大震災で建築家が活動を把握しており、他分野の活動を比較してみていますから、私は建築家の活動を全面的に肯定できない思いをもっています。

    もちろん、私は実際に活動している建築家に大きな敬意を感じています。
    その上で、素人の浅知恵と自覚しながらも指摘したいことが、ふたつあります。


    ひとつめに、実際の声として、支援を受ける側が「(建築家が提供したものに対して)あなた(建築家)はここで何がしたいの」「あなたの近所にこれがあったら、あなたなら行くの、あなたなら落ち着くの」という声があったこと。

    ふたつめに、これは昨年のツアーで一緒になった三部さんとこの話になりましたが、「希望を見せるだけ見せて、中途で投げ出すのは…」という声に、建築家がどう向き合うのか、ということ。


    このふたつの声は、何も建築家だけに問われていることとは思いません。
    先生が今回紹介された青木淳先生の活動、新井先生の活動を見るに、私が指摘したことを自覚し、必死に立ち向かっている建築家がいることを、私は知っています。

    そういう方たちに冷水を掛けるようなことを、また先生のブログでこういうコメントするのも筋違いかとは、思います。
    しかし、建築家の方がこのような声にどう向き合うのかということは、私の知りたい部分であります。だから、コメントさせていただきました。

    長文を失礼しました。

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  2. 小野寺さんこんばんは。
    なかなか難しい・・・というか、重い話ですね。
    小野寺さんがおっしゃる事は、僕にも想像出来ます。
    少し、時間を下さい。
    整理して考えます。

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  3. 先生、おはようございます。
    私が無理を言っているのですから、いくらでも待ちます。

    それでは、よろしくお願いします。

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  4. まず、今回の震災対応について、建築家にかぎらず枠組みをもう少し広げて考えてみようと思います。
    とういのは、事例を探せば、建築家に限らず、批判の対象は、行政(自治体・国)や、それに関わるコンサルや建設業者に(ボランティアにまでも)同様にあるからです。(もちろん、賛辞もあります)

    上野千鶴子さんの「ケアの社会学」という本を読み始めました。
    その中で、「よいケア」とは、ケアする側、ケアを受ける側の両者に「満足感」があるもの、と定義しています。
    そのなかで、ケアする側と受ける側の関係は非対称である、と述べています。
    それは、ケアする側は、いつでもケアを与える場から退出できるけれども、ケアを受ける側はそうではない。つまり、ケアをする側は、イヤになればいつでもやめる自由があるけれど、受ける側は降りる自由が無い。結果的に、非対称な関係は「権力関係」に転化しうる、と言っています。
    それから、もう一つ、ケアを受ける側は、ケアを受けることは自分の身体を他者に預けるギャンブルのような行為であり、上手く行く場合と上手く行かない場合がある、とも述べています。

    今回の大震災では、ケアをする立場が、行政・コンサル・建設業者・建築家・ボランティア、受ける側は被災者と考えると解りやすいと思います。

    行政も建築家も、それなりに一生懸命やっていた「にも関わらず」批判を浴びるのは、被災者にとって、自分たちにケアを受けることを放棄する自由も、選択権も無かった(必ずしもそうでも無かった部分もありますが)、つまり不可避的な構造から生まれた問題が大きかったと思います。
    そんなことは無かったと思いますが、ケアをする側は途中で降りる自由がある、という立場の非対称性が、被災者にとっては言葉にならない不満としてあったのでは無いでしょうか。
    建築家のクライアントは、一般的に「その建築家の建物が好きだからその建築家を選んで依頼する」ことが多いのですが、今回の被災者はそのような立場に立てない状況でした。
    答えになっているか解りませんが、これが第一の質問の答です。
    勿論、そんな一般論に回収出来るような話ではなくて、もっと複雑な・個別な問題があったことは理解しています。

    それから、これは私見ですが、建築家と行政との関係もあったと思います。
    今回、行政から呼ばれた建築家が少なく、主にボランティアとして参加していた建築家が多かったと聞きます。それは行政にとって、建設業者やゼネコンと比べて建築家は扱いづらい存在として映っていたのかもしれません。
    一概には言えませんが、コストコントロール、工期の短縮・システム化された性能など、行政が必用としていたのは、建築の独創性というより、プロジェクトをマネージして建設するノウハウでした。
    その意味で、独創性があればある程建築家が描いた絵を実現することは行政にとって必用以上に負担が大きかった思われます。
    行政にとっては、今回のニーズがとにかく「早く」「予算内に」だったのでそれに対応することに一生懸命だったため、建築家の絵は描かれたが、実現される事が少なかった原因だと思われます。
    それが、第二の質問の僕なりの答えです。

    いずれにしろ、今回の教訓は、建築家に限らず多くの人がシェアする必用があると思います。誰かをスケープゴートするのではなくもう少し社会構造に目を向ける必用があると思いますがいかがでしょうか?
    勿論、従来の建築家という職能が揺らいでいるのは、僕も肌で感じています。
    だからこそ、若い人を中心に活動領域を広げている建築家が出来ているのだと思います。

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  6. 先生、おはようございます。
    丁寧な回答をありがとうございます。

    先生の回答にかなうかはわかりませんが、私の考えを述べさせていただきます。

    私は車恐怖症で車にあまり乗れないため、被災地での移動手段はほとんど公共交通機関か。有志で運営されている被災地バスになります。だから、被災者がどういう移動をするか、どういう場所に集まり、何を目にするかを実感しながら、私は被災地を巡っています。

    そして、被災地をめぐる中で、被災地のシェアの輪の中に建築家がいないという問題点が、私なりに見えてきました。

    例えば、パンフレットや被災地活動ネットワークの中に、建築家の活動が入っていないことが気にかかりました。地元の案内板や、被災各地にある復興案内所や復興拠点センターのパンフレットにもほとんど建築の活動が載っていません。だから、地元の人たちは気付けません。これは、建築家という存在がとても近づきにくいイメージがついていること、そして、建築家が作るとどうしても権威づけられてしまうという部分に原因があるのでしょう。
    例えば、「伊東豊雄先生が中田ヒデさんといっしょに作りました~」と言われ、記念写真をこれでもかと掲げられると、観光ならいいですが、ご近所としては、それだけでまぁ近づきにくい雰囲気が作られてしまいます。これは、建築家の自己プロデュース力が仇になったのではないでしょうか。

    だから、建築家は被災者に助言するだけではなく、コネクションを生かして、建築家自身が役場の課長さんや部長さんに、それこそ市長さんや、県知事さんに「私の活動を地元の案内板で紹介してくれませんか」とか「他分野の活動といっしょに紹介してくれませんか」と言ったり(言ったのかもしれませんが)、建築の内装をちょっと変えるだけで、また違ったように思います。

    「どこ」で「なに」を掲げれば、「だれ」がみるか。
    建築家はそこをつかみ切れていなかったのではないでしょうか

    また、私には、建築家が地元のコミュニティの輪に積極的に入っていこうとしていないように見えました。磯崎新は「建築家は社会から見捨てられた」と言いましたが、それでも他分野よりも、行政のつてや、大学のつてや、ゼネコンのつてもあります。資金もそれなりに集まります。建築家同士のつながりは強固です。
    なんだかんだで、今回の被災地活動でも、他の分野より、被災地でのコミュニティを広げる必要性にせまられなかった。そのため、他領域よりも、建築家が地元のネットワークに深く食い込まなかったように見受けられました。(あえて、距離を置いたのかもしれません)

    以前、先生は「自分が楽しければ、相手も楽しい」とおっしゃっていました。
    それと同じだと思います。建築家は「コミュニティ創出」と繰り返し言いますが、自分のコミュニティを広げれば、相手のコミュニティも広がったんじゃないかな、と。被災地をめぐりながら、私はそう感じました。

    私は、建築家の活動を見ながら、「あと一言で変わったんじゃないかなぁ」「あとちょっとしたことで、受け止められ方も変わったのでは」と何度となく思いました。本当にちょっとした事だったと思うのです。

    また、私はあるシンポジウムで、建築家にひとつの危惧を抱きました。
    ざっくり説明すると、あるシンポジウムで、藤本壮介先生が「被災地には、伊東先生が言うような、社会と個の隔絶なんかありませんでした」と断言したのです。 (そのセリフを聞いて、伊東先生も口をあんぐりさせていました)
    藤本先生は天才肌ですから、例外かもしれませんが、伊東先生の「建築家よ、もっと被災地に没入せよ、なんで没入しないのだ。僕たちのためになるのだから」という叫びを、どれだけの建築家が理解していたのかなと、私は建築家に疑いの目を向けてしまいました。

    そして、ある雑誌の討論記事で、私の疑念はさらに強まりました。
    それは、被災地活動を振り返る記事でしたが、藤村龍至先生が「地元の役所に人に「君たちは希望を見せるだけ見せて、どうせいなくなるんだろう」と言われ、ボクはすごく考えさせられました」と言った時に、ある女性建築家の方(かなり有名な方)が「言わせておけばいいじゃない」とそっけなく返したのです。私は「心の中で思うのはいいけど、それを公の場で言えてしまうのか」と腑に落ちませんでした。

    何度も読み返し、文脈を洗いなおしても、私は彼女の発言を良いように解釈できませんでした。だから、社会構造と言うよりも、建築家のそういう姿勢が被災者に見透かされた部分もあったように感じます。

    もちろん、他分野の方が建築家よりも被災者の理解が進んでいたとも、私は思いません。はっきりいって、お行儀悪い慈善団体は山ほどありましたから。私は、建築家のいやな面ばかりを集めてしまっているかもしれません。
    それでも、建築家は様々なスキルを持っていて様々な活動ができますから、どの活動も言葉一つでまた違った展開になり、批判もなかったように、私は感じます。

    纏まりのない回答になりましたが、建築家には「自分ならどう楽しめるか」という視点が今回の活動では抜け落ちているように思いました。その視点さえあれば先生が言及したような、「与える側」「与えられる側」という、被災者が感じた一種の隷属感覚も和らいだように思います。
    建築家の本を読むに、いつもはそのような姿勢で仕事にあてられているのでしょう。それでも、非常時ということで、建築家も我を忘れたり、必要以上に意気込んでいたのかもしれません。その点では、平田晃久先生は飄々と、淡々と被災地活動をこなされていたように見え、私は心惹かれました。

    やはり、建築家の能力が高いこと、とくに一人でどう生きるかに長けていることは仇になったように思います。建築家の自己プロデュース力、批評力、危機管理能力の高さ。ここから先は言いにくいのですが、受け身力・かわす能力の高さは時として…という部分があったのでは…私は小説という世界で、こう言う視点に切り込めないかと考えています。

    私は先生のご指摘されていない部分をあえて書いたため、先生には釈迦に説法だったでしょう。先生を不快にさせてしまったと思いますし、私の言いっぱなしになってしまい、本当に申し訳ありません。先生に対して非礼が続いたことを、ここでお詫びします。本当に申し訳ありませんで

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  7. 小野寺さん

    現地で建築家がどのように見られているか?大凡想像に難くありません。
    恐らく、数々の不信感があるのでしょう。小野寺さんの言われる事はその通りだと思いますし、僕自身も東日本大震災まで、指摘された建築家のような意識を持っていたので反省もしています。(今でも抜けていないかもしれません)
    ただ、東日本大震災については、僕は初期のころ復興住宅のコンペに参加したのと、新井先生と被災地を回ったり仮設住宅でヒアリングをした程度で、復興に積極的に関わっているとは言い難い存在です。
    ですから、被災地で頑張っている(頑張ってきた)建築家に対して、批判出来る立場ではありません。と同時に少ない情報しかない者が、想像で批判出来きない事もご理解下さい。ある出来事を象徴化することで、建築家一般の問題にするのは出来れば避けたかったのです。

    もう一つ、今回の出来事は、本当に建築家の「意識」の問題だったのだろうか?という疑問もあります。正確に言うと意識「だけ」の問題だったのか?と。
    勿論、建築家が意識を変える事は始めなければいけない事ですし、それは小野寺さんに共感します。しかし、同時にそれで果たして問題が解決するのかな?と思います。
    例えば、一つの住宅の中で、嫁と姑の仲が悪いという困った問題がある。その時、嫁の意識を変える、あるいは姑の意識を変える(旦那が間に入って、お互い尊重し合うよう諭す)という方法もありますが、例えば、住宅を大きくして部屋数を増やし、台所と風呂を二つにして、お互いに顔を合す機会を減らす・・・という方法はどうだろうか?そんなことでお互いのストレスが減るのか?と思われるかもしれませんが、一般に「隣の国同士は仲が悪い」ように、構造的な問題かも知れません。
    問題の解決はあさっての方向からやって来る事があります。

    今回小野寺さんの呈示された問題は、二つの面から考える必用があると思っています。
    一つは、現場に入り込んで、可能な限り具体的に、つぶさに観察して一つ一つ問題を拾いあげて行くこと。これは小野寺さんが今やっている事だと思います。
    もう一つは、出来るだけ問題を抽象的に、構造的に考えること。
    建築家と被災者、行政と建築家、行政と被災者、など個別的な問題と、構造的な問題のどちらも考える事で、解決の糸口が見えて来るのではないでしょうか?
    勿論、僕は、「あえて」、抽象的に考える立場をとりました。理由は先程言ったように、具体的に考えるには情報が少ない事、そしてターゲットを絞って批判が出来る立場に無い事(あるいはしたくなかった事)です。
    どうか、ご理解下さい。

    小野寺さんの言われるのは、非礼でも無礼でもなく、僕自身不快には全く思っていません。むしろ共感しています。また、ご意見下さい。
    最後に、小説は、出来るだけ具体的に、今小野寺さんの考えていることをそのまま書かれた方が「強度」があるものになると思います。僕の言っている事は、「僕の立場」での発言ですから。

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