環境デザイン・アトリエ

横浜の建築家からのメッセージ。
日々感じた事を綴ります。

2015年7月29日水曜日

初めての函館

初めて函館に来た。
さかまく波を乗り越えてはるばる来た、わけじゃなくて、1時間20分ほど飛行機に乗ってきた。
ついでに言うと、とっっても我慢ができなかった、訳じゃなくて、お仕事で。

函館の町は、横浜と似ている。
どちらも、元々漁村だったけれど、江戸末期(1859年)に、開港して一気に発展する。
元町という地名、赤れんが倉庫、洋館、があったり、
旧市街と新市街がはっきりしている点でも、似ている。

ところが、戦後、経済的には違う方向に進みはじめる。
例えば、1920年頃の人口が、函館15万人横浜40万人だったのに対して、現在では函館が26万人横浜370万人と、全然別ものになってしまった。

元々函館は漁業が主要産業で、それが1970年代まで続く。
魚を捕るだけじゃなくて、その網をつくる工場、水産加工場、造船、倉庫業、それから船員さんを相手にする商売など、漁業を頂点として潤ったそうだ。
ところが、1977年、200海里時代に入ると、漁業は衰退の道を歩む。
と同時に、人工も減少し始める。
一つの産業に頼った街は、それが斜陽に向かうと、全体に影響を及ぼす。
産業の多様化は、今後の課題かもしれない。

話は変わるが、
函館の人は、飾り気が無くて優しい印象、だった。

画:hiromichi yasuda






2015年7月26日日曜日

友人が逝く

友人が逝ってしまった。心筋梗塞だったらしい。
50才はまだ若い。

中学の時の仲間達数名で故人のお宅に行くと、お母さんが迎えてくれた。

死水をとったあと、お母さんが故人の生前の話をしてくれた。

友人を大事にしていて、声が掛かるといつも喜んでいたの・・・
だから、今日は沢山の友人が来てくれて、彼も幸せだろう・・・どうもありがとう。
僕らに、何度も、何度も頭を下げた。

亡くなるということは、あとに残った人たちの問題でもあるから・・・
親より先に逝くのは、あまりに切ない。

心より、ご冥福をお祈りします。
画:hiromichi yasuda

2015年7月21日火曜日

オスカーニーマイヤー展

先日、千葉に行く途中でちょっとよって見ようか?とオスカーニーマイヤー展を覗いた。(by東京都現代美術館)

目的地に行く前にちょっと立ち寄るつもりだったけれど、すぐにそんな訳には行かないことを思い知った。

知れば知る程、規格外なことばかり。

ブラジルの近代建築史と彼の歴史はパラレルだけど、独りの建築家がここまで都市を作るチャンスがあったことがまず考えられない。

そもそも、104才まで生きたというのも尋常じゃない。
80過ぎても、精力的にデザインに取り組む姿は、なんというか・・・
スクリーンに登場したオスカーニーマイヤーは、エロいし、ヤバいし、でも可愛らしい、魅力に溢れたお爺ちゃんだった。

展示終盤のイビラプエラ公園は、スケールといい構想といい模型の大きさも含めて圧巻。
画:hiromichi yasuda

2015年7月18日土曜日

オリンピック1964→2020

先日、八王子市夢美術館に「戦後日本住宅伝説—挑発する家・内省する家」展を見て来た。実は、去年の今頃、埼玉県立近代美術館でやっていてそれも見たから今度で2度目。
戦後日本住宅伝説)←こちらで紹介。

埼玉では足早に見たので、今回はビデオ映像も含めて時間をかけて見てきた
その中で、黒川紀章さんの中銀カプセルタワービル(1972年)の映像を見たとき・・・・なんか違うなぁ?、今とずいぶん時代の感覚が違うな? と思った。

その映像は、建設に関するドキュメンタリーで、その中には建築家・エンジニア・施工者の面々の語りが含まれる。技術的に、こんなことあんなこと大変だった、という話だけれど、とにかく出てくる登場人物の肌がつやつや。
若い。

チーフアーキテクトである黒川さんは当時38才、その他ゼネコンのエンジニアも、映像を見る限り、30〜40代。
仮にこのような建設プロジェクトが現代にもあったとすると、はたして可能か?と思ってしまうほど若手が中心。今だと、チーフアーキテクトもゼネコンの統括者も、60代(下手すると70代?)が前面に出てくるだろう。

若いから、あるいはそうじゃないから良い悪い、という話では無いけれど、1964年の東京オリンピックも若いエンジニアや官僚、政治家が中心に頑張ったことが想像出来る。
失敗のリスクも含めて、寛容な社会であったことが想像出来る。
画:hiromichi yasuda

2015年7月10日金曜日

友人

友人とは良いものだと思う。
先日、大学以来付き合っている友人と3人で飲んだ。

ふらっと、A君が、僕とB君に飲もうか、と声をかけた。
実は後から知ったことだけど、B君が仕事でちょっと、というかかなり深刻に悩んでいたらしい。
会ってもその話は無くて、大学時代のバカな話でゲラゲラ笑って別れただけの飲み会だった。

たぶん、A君が気を使って、飲もうと声をかけたのだろう。


独りで仕事をしていると行き詰まると底なしだし、僕らの仕事は四面楚歌に立たされることもある。
愚痴でも、四方山話でも会って話をする。それだけで救われるのは、この歳になると、良くわかる。
画:hiromichi yasuda










2015年7月5日日曜日

お肉を腐らせない方法

食べ物の保存は冷蔵庫があるから助かっているけれど、それでもたまに奥の方から「もう無理」ってモノが出て来たりして、渋々捨てる事になる。
冷蔵庫がなかった時代は、さぞや大変だったろうな・・・

先日、J,ジェイコブズの「都市の原理」を読んで、ポンと膝を打った。
ジェイコブズは、1960年代頃から、近代都市計画による開発を批判した急先鋒の理論家だけれども、その本の中で都市の起源について触れていた。

一般的に、狩猟民族だった人類は牧畜と農業が発明された後定住が始まったと言われているけれど、彼女は定住が始まったから牧畜と農業が発明された、と、通説を逆転した。
その根拠については省くけれど(読んでみて下さい)、その中で、牧畜についての話が面白かった。

当時、人類にとって、食べ物を「保存」することが、とても大きな課題だった。(今でもそうだけど・・・)
つまり、肉も魚も野菜も、数日から数週間で腐る。
冷蔵庫も缶詰めも食品添加物も無かった時代に、それをどう解決したのか?

その解決策の一つが、牧畜であったと。
肉が腐らない為にどうするか?と考えた人類は、じゃ、生かしておけば良いじゃん!?
生きてりゃ死ぬまで腐らないよね、みたいな、つまり生かして隣においとけば、動物はとてもいい「保存食」であると。

食料を生産する産業の一つが畜産だけれども、その起源は冷蔵庫と同じ「保存」にあったとはね・・・
画:hiromichi yasuda


2015年7月2日木曜日

横浜国大の「森」

今年の4月から、横浜国大に週一回、通っている。

現在の横国大キャンパスは旧ゴルフ場を改造したもので、起伏が多く樹木も多い。
1974年に今の常盤台に新キャンパスが出来て、その10年後に僕は入学している。

当時は、白い建物郡と、曲がった中央通りが印象的だったけれど、その16年後、非常勤講師として再び訪れた時は、樹木がこんもりして森の印象に変わっていた。

さらにその15年後の今日、建物も増えたけれど、森は安定期を迎えたのか、大小さまざまな樹木がとても大きな体積を占めていて、広葉樹中心の「森」に益々近づいている。

この季節になると緑はより深くなり、白い建物との対比は横浜国大のキャンパスを特徴づけているけれど、自然の「森」に近づいた現在の姿は設計時に構想されていたものだと聞く。

このキャンパスの植栽は宮脇昭さんによる設計である。
画:hiromichi yasuda