環境デザイン・アトリエ

横浜の建築家からのメッセージ。
日々感じた事を綴ります。

2016年2月28日日曜日

2016 神奈川 大学卒業設計コンクール(結果)

本日、神奈川 大学卒業設計コンクールが無事終わった。
企画者として、不備が無いように(それなりに)張りつめていたので、無事終わったことにホッとした・・・と同時に、これを書きながら今は心地よい脱力状態。

今回、特に2つの事が心に残った。

一つは、金賞(最優秀賞)に選ばれた、東京工芸大学の留学生リバート君の作品。都市インフラ(道路・鉄道)を積層させて土地を掘込んで走らせるという提案。
案もさることながら、東南アジア出身の留学生であるが故の、ストレートな野心と純粋性が混じった、清々しい提案だった。
たぶん、高度成長期以降、日本人が失ってしまった「時代はもっと良くなる」という確信、都市を作る前向きな姿勢が・・建設の喜びってこんなんだったよな・・・という郷愁を誘ったのだと思う。

もう一つは、鎌倉近代美術館についての、審査員の一人である野沢正光さんの講評だった。この冬、美術館としての役割を終えた鎌倉近代美術館について、その生まれた経緯から始まり、それが何故残さなければならないか?を、丁寧に、そして熱く、学生の心に響く言葉で説明していた。
会場の全ての人が、その発する言葉一つ一つを静かに聞いていたのが印象的であった。











14 件のコメント:

  1. 先生、おはようございます。
    企画の方、お疲れさまでした。

    こちらでも、仙台デザインリーグが2日後にあります。
    審査員は、西沢立衛・手塚貴晴・田根剛・倉方俊輔・成瀬友梨・小野田泰明・福屋粧子と中々のビックネームが揃っていました。(去年の審査委員長は南三陸出身の阿部さんでした)

    時間があれば、私ものぞきに行こうと思います。

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  2. 小野寺さん
    御返事遅くなりました。

    仙台デザインリーグ始まりますね。
    学生の提案は時代を反映させたものが多いので、どのような作品があったか、また教えて下さい。
    では。

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  3. 安田先生、こんばんは。

    仙台デザインリーグに行ってきました。
    伊東氏が作ったメディアテークは建築学生でパンパン。熱気であふれかえっていました。

    しかし、卒業制作に震災関連の作品がほとんどなかったため、私は別の感情で満たされました。なんといいますか、「あぁ、東北以外は…そうか」というような意識の隔絶と言いますか、埋めがたい差というものです。

    これは建築家への非難というわけではありません。これは仕方がないことです。
    考えてみれば、私が感じた建築学生との間に感じた埋めがたい差は、私が被災地で生きる人に感じさせているのかもしれません。

    すみません。少し関係のない話をしてしまいました。


    卒業制作について、先生にひとつだけ質問があります。
    先生はどんな卒業制作に魅力を感じますか?

    夢にあふれたものか、野心を感じるものか、エネルギー溢れたものか、純粋な動機を見出せるものか、広い世界感か、将来性か。建築に対する熱意か。

    学生に求めているもの、と言い換えられるかもしれません。
    これは一般論というよりも、先生の建築家としての志向から見えるものをお聞かせいただけないでしょうか。学生の最近の傾向というものでも構いません。

    言葉にしにくい質問かもしれませんが、お答えていただけないでしょうか。
    よろしくお願いします。

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  4. 震災から5年経って、メディアでも丁度今の時期は震災特集をやっていますが、日常では確かに話題になる事は少なくなってきました。
    記憶にあるのは、震災直後でさえ、九州に行った際東京での空気とずいぶん違っていて、切実感が少なかったのが印象的でした。ほとんど日常生活というか、むしろ北朝鮮問題の方が大きかったというか(笑)。
    その点では、日本は狭いようで広いですね。

    学生の提案は、いかなる時代でも「今」を反映させているので、時代の合わせ鏡になっています。好き嫌いを超えて、僕は、そんな興味で学生の卒業制作を見ています。
    どんな案に魅力を感じるか?というと、今の時代を反映させている案、でしょうか・・・

    ただ、今年は今ひとつ解らなかったのが正直な感想です。それほど多くを見ている訳では無いのですが、自分の中で上手く整理出来なかったです。
    失われた10年と言われた、2000年前後は、どこか内向的で、文学的な作品が多かった印象でした。震災前後からは、そうした文学的なものと平行する形で、社会的、コミュニティを意識したものが多くなった印象でしたが、近年はそれも一段落ついた感じです。

    ところで、最近の僕は、それとは別のところに興味を持っています。内向的-社会的とう軸ではないところ、ですが・・・ただ、まだ言えない・・というか、単に整理されていないので言葉になってないのですが。(苦笑)

    恐らく、小野寺さんが小説(言葉)にしようとしてモヤモヤしている事と通じるかもしれません。

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  5. 今日のコメントは思い切って、かなり抽象的な表現を多用したいと思います。
    お聞き苦しい箇所が多分に出ると思いますので、最初に断っておきます。

    以前、私は「みんなの家」についてかなり批判的な言葉を残しました。
    しかし、「みんなの家」とそれ以外の被災地活動を見ながら、私はあることに気付きました。

    震災以降、コミュニティ創出、コミュニティ維持が声高に叫ばれてきました。
    しかし、他者との関係性は他人から用意されるものではなく、「自分がここで生きる」「自分はここで○○をする」と決めて、実際に行動すれば、他者との関係性は後から自然についてくるもの、と考えるようになりました。

    私は、ここに、新井先生のあすと長町の事例、平田晃久先生のカラマリシロの考えを結びつけて、捉えています。

    そこから、「確固たる個」「自己」「どう生きるか」という要素、そして「むき出しの個」というものが他者を捉えるのではないかとも、おぼろげながら考えるようになっています。


    私はそこから、建築家のあり方に考えを伸ばしています。

    現代の建築家は、用意された条件の中でしか戦えない。
    建築家は長年この部分に苦しんでいたわけですが、じゃあ、他人に課された条件がなかったら、建築家は何が残せるのか。無条件ならば、建築家は自己が満足する結晶を残すことができるのだろうか。

    建築家が条件に足を引っ張られた部分もあるでしょうが、建築家自らがその檻の中に飛び込んでいるようにも、私は見えています。
    被災地の活動を見ると、ネガティブな要素もたくさん見えますが、湧きあがるエネルギーで心からワクワクするような活動も少なからずありました。人の理想的な状態は、アランの『幸福論』を引用すれば、必要以上に頭を使わず、行動に徹すること。建築家がそうなるためには、どうすればいいか。

    国立競技場の聖火問題(後からなんとでもなるでしょうが)での、トップ建築家が聖火を考慮にすら入れてなかったテイタラ…も、この部分につながるのではないでしょうか。

    申し訳ありません、かなり生意気な物言いが続いてしまいました。

    先生にも以前指摘されていましたが、私は建築家に意識を問うことにかなり重きをいてしまっています。これは、私は建築史しか勉強しておらず、設計実務も、経営実務も皆無なため、建築家のシステム面に踏み込めないため、いたしかたない部分です。

    ですから、今日、先生にお聞きしたいのは、実務と経営経験を積み重ねた先生の眼から、私の意見はどう見えるのかということです。絵空事と一蹴されてしまうかもしれませんが…

    先生が以前おっしゃっていた建築家の構造的問題についての言及でも構いません。
    答えにくい質問であるという自覚はありますので、お答えはいくらでも待ちます。よろしくお願いします。

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  6. 小野寺さん
    ちょっと時間を下さい。

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  7. 小野寺さん

    ご質問の全て答えるだけの能力と時間が無いので、一つだけ御答えします。
    現代の建築家が「用意された条件のなかでしか戦えない」と言う下り。
    それはその通りかもしれませんが、もしそれが為に建築家が社会からの信頼を失った、としたら、それはやや違うかな?と思います。

    例えば、次のように言い換えたらどうでしょうか?
    建築家が自分のフィールド(専門領域)を設定してその中で仕事をしているとする。いわゆる予条件を解くという作業です。法規、予算、施主の要求、地形、気候、性能、など建築を作る上での諸条件を整理して、建築を設計します。その整理する能力は、建築家が専門家として、社会から報酬を得るための大切なスキルです。
    もし、そこに徹していれば、「職人」として、恐らく社会から信頼されるでしょう。

    ところが、それより上位に「コンセプト」や「表現」「批評」など「建築家の自意識」が大きくなっていった。その為いつごろか行政や一般社会から信頼を失ってしまったのではないか?と伊東さんは言っていたのではないでしょうか。
    「用意された条件の中で静かに戦って」いれば、建築家は自分のフィールドを小さくはしても、恐らく昨今のような状況にはならなかった、と。

    ただ、ここからは、小野寺さんに共感するのですが、「用意された条件の中で静かに戦って」いれば、良いとは決して僕も思っていません。どのように、そのフィールドを広げていくか?作っていくか?が今後大事だと思っています。それはこれからの建築家にとっての試金石でしょう。
    最近、建築史を読む事が多くなり、明治の建築家、戦後の建築家は、我々より数十倍苦労して建築家の職能を広げて行った(あるいは作っていった)のが良くわかりました。僕らは、その数分の1程の努力もしてないなと。

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  8. 安田先生
    忙しい中、丁寧な回答をありがとうございます。

    先生に、これ以上お手間をとらせることは心苦しいのですが、質問をもうひとつだけ。

    先生のコメントをそのまま受け取るならば、「職人」としての信頼よりも、建築家は社会から信頼されていない、もしくは「職人」としての信頼を自意識によって損なっている、ということになります。
    雑誌や書物では、上のような意図が込められた文章を見ますが、建築家の方から直接その言葉を聞いて、私はかなり驚いています。だから、質問します。

    先生は、(先生がおっしゃる)「昨今のような状況」をどのような形で実感されましたか。

    不躾な質問ではありますが、答えられる範囲でお答えいただけないでしょうか。
    よろしくお願いします。

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  9. もしかすると、僕は、小野寺さんの言った、「用意された条件の中でしか戦えない」の意味をしっかり理解していないのかもしれません。
    逆質問になってしまいますが、「用意された条件の中でしか戦えない」というのは、具体的にどのようことで、どのような局面でマイナスになっていたのでしょうか?
    それを聞いた上で、質問に答えられたらと思います。

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  12. 先生、言葉が足らずにすみません。
    というよりも、先生のコメントで、私の中で言葉にならなかった部分が、ようやくはっきりしてきました。

    「用意された条件の中でしか戦えない」の中で言う『条件』とは、先生がおっしゃる『法規、予算、施主の要求、地形、気候、性能、など建築を作る上での諸条件』という意味で、私も使用しています。

    しかし、建築家は戦う場によって、その『条件』の形態が二つに分離しているように、私は感じます。

    まず、『条件』に関する、1つ目の意味合い。
    それは文字通り、建築家が職人として求められる条件、また建築家が現実の場で生き残るためにクリアすべき必須条件、という意味合い。

    これは先生が建築家として長年活躍されてきたことを見て、現代でも、建築家が「職人」として条件をクリアする能力は十分に信頼されているのだと、私は考えています。(ただし、ある建築家が「昔と違い、今の建築家は公共施設だけではなく、個人邸宅の注文があれば恵まれている方」と発言されていたので、このような意味合いでも、一部の建築家は危機感を抱いているようですが)

    次に、2つ目の意味合い。
    これは現実ではなく、何といいますか、建築家のために仮想空間のような世界が事前に用意され、施主から『法規、予算、施主の要求、地形、気候、性能、など建築を作る上での諸条件』を課されているように見えて、それが現実世界とはマッチングしない条件を与えられているのではないか、というもの。
    国立競技場の問題は、この部分に関わっているように思います。

    そして、私はそれをどのような場面で実感したか。
    これは、色々あるのですが、この場では三つ紹介します。

    一つ目の事例。
    昨年九月、先生と一緒に被災地を巡りましたが、その時にご一緒した三部さんと話していた時に感じたものです。三部さんは、県庁出身者の建築士有資格者で、建築の実務、都市計画における計画者・折衝役・統括者の経験がある方ですが、どうやら三部さんの持つ「思考の前提」を、建築畑にいる一部の人は持っていないのではないか、と私は感じました。私も初めのうち、その違和感を理解できず、取材で会話がかみ合わない面が何度かありました。
    つまり、三部さんが持たれる「能力」ではなく、建築家は三部さんが持つ「思考の前提」を持っていないのではないか、という私の疑念です。では、なぜ建築はそれを持てていないのか。

    二つ目の事例。
    これは被災者の取材時に感じることです。
    取材をすると、取材対象の被災者から「どのような取材をされているのですか」と聞かれるので、「私は建築家を主軸において取材しています。建築家はいま社会での立場を失いつつあり、その苦悩と言いますか、そういう視点から被災地に迫れれば…」と答えると、被災者が「あー、はいはい、なるほどなるほど、わかります」と返されます。私は、このような場面に何度も出くわしました、つまり、建築の関係者でもない被災者たちの間に、建築家に対するある種の共通認識がある、と私は考えています。では、その共通認識は建築家の姿勢のどこから生み出されるのか。

    三つ目の事例。
    妹島氏が設計した月浜にある『みんなの家』に関する出来事です。
    月浜の「みんなの家」は陸側から海への抜けるようなカットが一番の美点です。しかし、去年からこの建築の目の前に防潮堤が作られているため、この景色を望むことはもう叶いません。さらにつけ加えれば、月浜は去年の夏、防潮堤工事の影響で海開きをしませんでした。

    だから、ヒトの姿がまったくありません。妹島氏が設計した『みんなの家』はまったく使われていませんでした。それでも、月浜の民宿は去年も営業を続けていました。去年の8月、私はただの客として月浜に赴き、そこで黙々と作業をする人々を見てきました。通りがかりの民宿のおばさんには「建築の学生さんですか?」と言われました。妹島氏目当ての建築学生しか、この場所を訪れないからでしょう。

    私は月浜の現実を脳裏に焼き付けた上で、去年の10月、妹島氏のシンポジウムに行きました。
    私の予想通り、落ち込むような形でシンポジウムが進行していきました。妹島氏は魅力が失われたみんなの家の説明をして、魅力を失わせた張本人である役人たちが妹島氏を持ち上げる。そこに集まった建築・土木会社のお歴々がやんや、やんやの大合唱。そして、トドメのように、月浜の被災者が『みんなの家』の魅力を語る動画が流される。この動画では、明らかに、被災者に無理矢理語らせていました。シンポジウムの異様な熱気と月浜に流れる雰囲気のギャップに、私は本当に切なくなりました。他にもさまざまな形で矛盾が見えてきて、私は本当に悲しくなりました。では、なぜ、このようなギャップが生まれるのか。

    このような実体験が相まって、私は「現代の建築家はどこで何を戦っているのだろう」という疑問が今湧いています。

    この疑問は『条件』の意味合いが2つに分離していることによって生じているのだろうと、私は推察します。そして、建築家の中には、その事実に気づきその現実と闘う方と、その事実に気づきあえて距離をとる方がいるとも、私は考えています。

    しかし、建築家の中には、この事実に気づいていない者、または以前の私のように、建築家の中には分離した『条件』の意味合いを混同して捉えている方もいるのかなと、私は考えています。

    ここに、建築家の「肥大化した自意識」が絡んでいるのではないかとも、私は考えています。

    先生との意識の齟齬を防ぐためとはいえ、かなり長いコメントになってしまい申し訳ありません。話がずれてしまったかもしれませんが、これが「用意された条件の中でしか戦えないの意味」を、私なりに再解釈したものです。

    先生はどう思われますか。

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  13. 「用意された条件」というのは、曲者ですね。(笑)
    第2の意味合いが、小野寺さんの言う「用意された条件の中でしか戦えない」ということの否定的な意味でしょうか。
    「建築家のために仮想空間」とは、建築家(同業者)にしか通用しない「価値観」ということでしょうね。伊東さんが震災直後に出した「あの日からの建築」の最終章で書かれていた事だと思います。

    最近、歴史を読むようになったと言いましたが、とても良い本に出会いました。稲垣栄三さんの「日本の近代建築—その成立過程」です。丸善から出ていて、昭和36年6月が初版ですから、かなり古い本です。(SD選書からも出ています)

    明治から戦前(第二次大戦前)までの日本建築の近代化を、社会情勢、デザイン、建築家の職能、工務店(ゼネコン)の役割、国の政策など、広範囲のデータをもとに分析した良書です。
    何が良かったというと、近代建築を、単にデザインの推移に限定せず、その当時の社会情勢などの背景も含めて説明している点です。まだ、大正までしか読んでいませんが、とても面白い。

    明治から大正に移る際の、建築家の役割について、とても示唆的な考察をしています。
    明治は、西欧文明を取り入れた時代ですが、建築家の役割はその様式や技術を習得することでした。外人建築家を招聘したりエリート建築家を西欧に留学させたり、とにかく学ぶ事だったと。明治時代はそれが建築家の使命だったところがある。建築は近代化と西欧化は殆ど同じだったと。
    それが一応の達成を見た時、つまり明治末期から大正時代に入る頃ですが、今度は構造技術(耐震)や、火災(不燃化)など、都市において日本特有の問題が表面化してくるのです。関東大震災はそんな時代に起こったのです。
    当時の建築家の問題意識は、様式を学ぶ事から、日本の都市問題に移って行ったと。
    現在の建築基準法の元となる、市街地建築物法と都市計画法が整備される訳ですが、つまり、建築単体のデザインの問題から、社会政策(法の整備)による「人間の居住環境の改善」に向かったのです。仕組みのデザインですね。
    建築家は、制度設計に力を注いだのです。

    勿論、僕らの時代が似ているかどうかは後世の歴史家しか知りませんが、でも、そんな過渡期を迎えているのは確かでしょう。
    「デザインの問題だけを扱っても時代は良くなって無いじゃないか!」という声なき声というか・・・(もう声になってるのかな?)・・・東日本大震災、その他、建築家に対する風当たりというか、建築家自身の逡巡というか、そういうところに来ているのではないかと思うのです。

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  14. 先生、丁寧な回答をありがとうございます。

    >第2の意味合いが、小野寺さんの言う「用意された条件の中でしか戦えない」ということの否定的な意味でしょうか。
    >「建築家のための仮想空間」とは、建築家(同業者)にしか通用しない「価値観」ということでしょうね。

    その通りだと思います。
    ここにつけ加えるならば、「建築家のための仮想空間」の空間は、施主が用意する場合もあるだろうし、建築家自らが用意する場合もあるのでしょう。
    そして、『条件』に関する第1の意味合い(職人としての)、第2の意味合い(仮想空間としての)を混同すると、建築家は職人としての信頼も損なってしまうのではないか、とも考えています。

    建築家に対してかなり否定的な言葉を並べてしまいましたが、構造学からデザインにアプローチされる佐藤淳先生の活動を見るに、建築家も立ち位置をきちんと考えれば、面白い形がまだまだたくさんあると、私は確信しています。

    以前、「他者との関係性は他人から用意されるものではなく、「自分がここで生きる」「自分はここで○○をする」と決めて、実際に行動すれば、他者との関係性は後から自然についてくるもの」と表現したのはそのためです。

    かなり不遜な物言いが続いてしまいました。申し訳ありません。
    先生が紹介してくださった、稲垣栄三の「日本の近代建築—その成立過程」は探して、必ず読みます。実は、旧登米高等尋常小学校を作った山添喜三郎(隈研吾の森舞台絡みで知りました)に興味があって、明治から戦時下までの建築家のあり方を知りたいと考えていました。しかし、あまりいい本が見つからず困っていましたが、稲垣の本はかなり参考になりそうです。ありがとうございます。

    忙しい弥生にスマフォを失くされた先生を、これ以上困らせるわけにはいきませんので、このへんで失礼します。

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