衛生陶器を見てると、[大便器]より[小便器]の方が、デザインのバリエーションが多い気がする。勿論、種類は[大便器]の方が圧倒的に多いのは、T社、I社(今はL社・・・)のカタログを見てると、わかる・・・・が、
でも、形もサイズも微細な違いで、性能ばかりを争ってる気がする。
それに比べて、[小便器]は、形とサイズのバリエーションが豊富である。
以前、イランに旅行に行った際、トルコの空港のトイレで、丁度股間の高さに、その、あの朝顔?があって、ちょっとギョッとした。
日本でよく見かける、床にくっついてる長いタイプが、低リップ型と言うらしいけど、その空港トイレで見たのは、50cmぐらいのラグビーボールを斜めに切って、床から70cmぐらいの高さに付いている感じで・・・・なんと言うか、朝顔が股間のすぐ下を包むような、・・ちょっと背伸びをしたくなるような、モゾモゾした感じであった。
(西洋人は足が長いから気にならないのかな・・・・)
ま、しかし、床が汚れてなかったから、こちらの方が粗相が少なそうではあるが・・・・
安田先生、おはようございます。
返信削除今日は建築の形(造形)について、質問します。
トイレの形もそうですが、建築の形に日本的な傾向はあるのでしょうか?
コルビジエの理論完成後、サヴォア邸が建築のひとつの理想形とされて、全世界に広がっていきました。
戦後日本では、丹下が日本建築の歴史を紐解きながら、モダニズム建築の和様化をすすめました。その形が、香川県庁舎や代々木体育館であると、私は認識しています。
そこで、時間軸を現在まで戻すと、どうなるか。
少なくともフゲーリー、ザハ、コールハースのような脱構築派は日本にいないように思います。ポンピドゥーのようなアバンギャルドも頭に浮かびません。
『建築の形』として、日本人に何がしかの傾向はあるのでしょうか?
答えにくい質問かもしれませんが、よろしくお願いします。
そうですね。答え難いですね。(笑)
返信削除日本人が思う「日本的」と西洋の人が思う「日本的」に少しズレがある事を前提としてなら、一つ言える事があります。
例えば、海外からの旅行者が、日本のそば屋なんかにある「爪楊枝」が細かい細工でしきりに関心したりとか、キャンディの普通の包装紙がカラフルで、江戸!とかいって喜ぶ姿を見た事がありますが、日本人は、それが日本的とは意識していないですね。言われて、初めて、ああ、という感じです。
そういう意味で、sanaaの建築も、安藤忠雄の建築も、ヨーロッパでは「日本的」と理解されているようです。
例えば、sanaaの建築は、吹けば飛びそうな軽やかさと、その構成が、日本の数寄屋などの伝統的な軽さに繋がると見られているふしがあります。
また、安藤さんのミニマリズムも、質素であるとか禅であるとか、日本の伝統的感性として、評価されているようです。
「形」というより、「感性」の話ではありますが。
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返信削除小野寺さん。すみませんでした。御返事遅くなりました。
返信削除(投稿が削除されてしまいましたが・・・)
屋根の議論は、なかなか難しいと思いますが、モダニズムの形は、確かに『屋根を考慮しない』ことを前提とした形だったと思います。
ですから、日本の場合(海外もそうかな?)アンチモダニズムの議論が起こるときは、屋根問題が復活する事が多いですね。
ポストモダンの時もそうでしたし、数年まえでは、東北の復興住宅の時の伊東豊雄さんの問題提起もそうでした。屋根のモダニズムは切り離せない問題でしょうね。
先生、おはようございます。
返信削除余計な配慮をかけてしまい、申し訳ありません。
実は、先生のコメントにありますように、私は伊東先生の話を念頭にしたものでした。
これは「みんなの家」の議論でも屋根問題があがっていました。
特に伊東先生と藤本先生との間で…
しかし、伊東先生の主旨は屋根があるかないかというよりも「『社会と個の隔絶』をという根源的な命題を前にした時、屋根議論なんかどっちでもいいじゃないか。何で建築家はもっと被災地に没入しないんだ。これは人生で何度も経験できることじゃない。もっと身を投げてほしい」と、かなり熱を込めてしゃべっていたのが、印象的でした。
その時、私は建築家と言存在に興味を持つとともに、「屋根を含めたファサードへのこだわりを棚上げした時、現代建築家に何が残るのか」と、大きく疑問に抱いた瞬間でもありました。
自分の中で言葉になっていない疑問が、あのような質問になってしまいました。それが少し筋違いな質問になっていることに後で気づき、コメントを削除しました。ですから、お気になさらないでください。
また、丁寧な回答をありがとうございます。
これからも寄らせていただきます。次回からは、先生が困らない形で質問しますので、その時はよろしくお願いします。